1867年(慶応3年)7月~
1937年(昭和12年)9月19日

享年70歳

酒造業矢野権右衛門の五男として、家業を継いだ二人の兄の跡、1906年(明治39年)五代目当主として家業を継ぎます。

稀に見る経営の手腕と商才を発揮し、次第に事業の規模を拡張していき、「竹の園」「和気鶴」という銘柄は、矢野酒造のみならす、鹿島の代表的な名酒として県内外に有名になりました。

一方彼の事業家的才能と手腕は鹿島の地域経済や社会生活、観光、文化の面でも大いに貢献するところとなったのです。

●鹿島市の水道

当時流行した「鹿島熱」の原因が水にあると考えた和良は、鹿島医会の人々とも相談して、上水道敷設を思い立ちます。井戸掘りの専門家を一年間自宅に滞在させ、土地家屋を担保に入れ、借金をしての挑戦でありました。

試掘に取りかかって二年、ようやく西牟田みどり地区の優良な水源を発見し、旧鹿島町と北鹿島の有識者らと相計らって保証責任水道利用組合が設立され、鹿島に初めての飲料用水が家ごとに供給されるようになりました。

その結果、熱病もなくなり、公衆衛生保健の面からも鹿島生活史にとっても画期的な変化をもたらしました。

※鹿島熱(チフス)とは、明治から大正にかけて、この地方では毎年伝染病が発生し、中でも高熱を発する「鹿島熱」(チフス)と呼ばれた熱病が流行し、人々から恐れられていた。

●鹿島消防組

新しく鹿島消防組を組織し、当時最新の装備を有し、自らも消防組長として永らく指導にあたり、のちの消防団組織の基となる。

●町会議員、鹿島商工会会長を務める

①野口雨情の作詞で「鹿島節」を完成させる。

②旭ケ丘公園の桜を大増殖し、桜の名所「鹿島」を広く伝える。

③西牟田相生通りに芝居小屋「鹿島座」を常設。花柳街を集約、現在に至る。

 

1938年(昭和13年)和良の亡くなった翌年、西牟田水源地に和良の業績をたたえた銅像が造られた。

平成8年に道路拡幅工事の為、現在の場所に移されました。